すずしろさん

novel



 朝起きると、ちゃぶ台の上に女性が一人座り込んでいた。



 大久保は一度ベッドの上に起き上がり、とりあえずここが自分の部屋であることを確認した。後頭部にいっぱいの朝日を浴びながら混乱する頭で昨夜寝る前のことを思い出す。
 確か、先輩に誘われて飲みに行ったのだ。失恋したと自棄酒をする先輩に、自分を含め五人が付き合わされた。泣いて飲んで暴れる先輩をタクシーに押し込み、ふらふらになりながら帰ったのは、もう朝と言ったほうがいい時間だ。
 いっそ気絶したい気持ちになりながら、自分の部屋の鍵を開けたことは覚えている。
「あの……」
「はいっ?」
 楚々とした女の声に、大久保はびくりと肩を揺らす。部屋へ、帰ってきたことは覚えているのだ。
 ただその後を覚えていない。
「おはようございます」
 女ははにかみながら言う。こんなわけの分からない事態であるのに、大久保は彼女に思わず見とれてしまった。静かにそこに正座している女は、濡れたような艶のある美人だった。
「あ、ハイ……おはようございます」
 呆然とベッドの上から応じる大久保に、女はくすりと笑う。「わたくしのことを覚えていらっしゃいますか?」
「え、あー……その、」
 大久保がばつが悪そうに視線を逸らすと、女はゆっくりと頷いた。「無理もありませんわ」
「昨日は随分酔ってらしたようでしたから。お酒は大変よろしいですけれども、程々にしておくべきだと思いますよ」
「あ、はい。気をつけます……」
「ええ」
 にこにこと女は笑っている。つられてへらりと大久保も笑みを返したが、ああ違う、と首を振る。「あの、ところで」
「はい?」
「失礼ですがどちらさまで?」
「まあ! 名前も名乗らずに失礼致しました。わたくし、すずしろと申します」
 スズシロさん、と大久保は頭の中で繰り返す。やはり思い当たらない。
 じっと眺めていると、女は――すずしろはゆっくりと首を傾げた。色白なために、朝日を浴びてきらきらとしている。大久保はうっかり見とれてしまってから、違う違う、と首を振った。
「あー、あの、それで、何ですずしろさんはそこに座ってるんですか?」
 ちゃぶ台に。しかも正座で。大久保の問いかけに、すずしろは、ふふ、と笑みを零す。
「いずれ分かりますわ、きっと」
「えーと、でも、ちゃぶ台は硬いし、正座だと、足疲れませんか?」
 問いかけながら、何だか論点が違う、と大久保は思った。
「いいんですわ。わたくし、足が太いのがコンプレックスで……こうしていると、あまり見えませんでしょう?」
 大久保は曖昧に相槌を打った。確かに淡い緑のスカートが、彼女の足を少し隠している。
「それより、具合のほうはいかがです?」
 顔を覗き込むように問われたが、大久保は意味が分からずに目を瞬かせた。
「え?」
「昨夜は随分とお酒が過ぎたようでしたので、少しお節介を致しましたの、わたくし。御気分は悪くありませんか?」
「そう言えば……」
 先輩に飲め、飲め飲め飲め! とばかりに飲まされたというのに、さほど気持ちは悪くない。多少頭はぼう、とするが頭痛もしない。
 大久保がそう応えると、すずしろはにっこりと笑った。
「安心しましたわ。わたくしも、身を張った甲斐がありました」
「え? それは、どういう……」
 大久保が問いかけようとしたとき、遠くからベルの音がした。非常ベルのような、よく聞き覚えのある音。怪訝に思い、そちらを振り返ろうとする大久保に、すずしろが「お時間のようですね」とぽつりと言った。大久保は慌てて視線を彼女に戻す。
「すずしろさん?」
「今後お酒は程々にして下さいましね。それでも、もし飲みすぎてしまったときには、わたくしのことを思い出してください。お力になれると思いますわ」
 すずしろの笑みがだんだん遠のいているように、大久保は思った。そういえば、ベッドから降りてもいない。
 すずしろさん! 大久保は呼んで、手を伸ばす。すると、ずるり、と体が滑り落ちた。
 がちっ!
「イテッ!」
 顎を強打し、大久保はその場でのたうち回った。舌を噛まなくて良かった。顎を押さえつつ心底思う。
 痛みを堪えながら立ち上がると、ベッドサイドにある目覚まし時計がけたたましい音を立てていた。
「煩いと思った……」
 スイッチをオフにする。それからひとつ、嘆息した。「夢かあ……」
 よく考えてみれば、いくら美人だろうと部屋に見知らぬ人がいる状況は不可思議で怖いものだ。何故気づかなかったのかと、自分に呆れてしまう。
「あ、でも頭は痛くない……」
 顎の痛みが引いたので気づく。
 夢の続きと言うわけでもないだろうが。と首を捻った大久保の視界に、朝日に照らされたちゃぶ台が入る。
 半分ほどの大根が、ごろりと横たわっている。その横には、大根の水分でだろう、朝日を反射するおろしに、大根おろしを乗せた小皿まである。
「え……?」
 大根の瑞々しさや、白さが、大久保にあの女性を思い出させた。そういえば、彼女はすずしろと名乗ったのだ。大久保は特に植物に関して詳しいわけではないが、すずしろが大根だということくらいは知っている。
 身を張った、と彼女は言った。小皿にある大根おろしは食べかけだ。それを食べたのが誰かなどと、考えるまでもなかった。
 大久保は、開いた口が塞がらない。
「す、ずしろ……さん?」
 大久保は、どこか遠くで、くすくすと笑うあの楚々とした声が聞こえた気がした。

end

2006.10.18




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