竜と世界の終わり

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 ようやく開けたところに出た。リムは背負っていた荷物を下ろし、なかから水筒を取り出す。生温い水で唇を湿らせた。軽く息を吐きながら、腰を下ろし空を見上げた。まだ日が高い。
 ぐるりと首を回し、ついでに辺りを見渡す。森のなかを歩きながらも思ったけれど、生き物の気配は全くしなかった。木々のざわめく音が時折するくらいで、鳥の声もこねずみの走る音も、あぶの羽ばたきさえ聞こえない。森に生えた木々は瑞々しく、美しいくらいだったが、それが逆に不気味だとリムは思った。
 そうか。ふっとリムは息を吐き、笑みを浮かべる。こんなところだから、あんな噂が立ったのかも知れないと。
 この森には、竜が住んでいるのだという。
 近くの街に住む者たちは、皆口々にリムに囁いた。黒く堅い鱗に覆われた身体に、琥珀色の瞳。森の奥地へと迷い込んだ者は、目撃することが多いのだと。竜を見て帰った者もいれば帰らぬ者もいる。帰らぬ者は竜の逆鱗に触れ、消されてしまったのではないかというのが彼らの――街の住人らの見解らしかった。宿屋の女将に始まり、武器屋の老主人、街角に立つ娼婦、噴水で遊ぶ少女までリムに竜の話をしたがった。
 有名だが大変辺鄙な土地だ。外の人間が珍しいのだろう。おかげでリムは、何度も何度も竜の話を聞かされた。
(――でも、ようやく来た)
 ようやく。リムは拳を握りしめた。(ようやく辿り着いた――ディド)
 すう、と顔を撫でる風に目を閉じる。静寂さに、耳が痛い。
 これからどうするつもりなのかを、リムは改めて考えようと思った。ただここに来ることばかりを、今までは目標としていたから。
 閉じたときと同じように目を開き、リムは思わず「え」と声を漏らした。「なん、……だ、誰だ?」
 リムの顔を覗き込むように、少女がひとり立っている。すぐ近く――吐息さえ触れてもおかしくないだろう位置に。
 そんな馬鹿なとリムは身を引いた。こんな近くにくるまで気づかないなんて、そんな話がありえるはずがなかった。リムは人の気配に敏感だと自負していた。
 少女はそんなリムの驚きに頓着する様子を見せない。笑えば可愛らしい顔立ちをしているのだろうに、今は怒ったように眉間にしわが寄っている。
「ここで何をしている」
 「何って」思ったよりもアルト寄りの声が、リムの耳を打った。リムは一度呼吸を整え「何も」と短く応える。
「何も?」
「竜に会いに来ただけだ」
「――何のために」
 少女は問いを口にしながらも、応えを求めるつもりはないのかゆるりと首を振った。そうして「こんなところに竜はいない」と素っ気なく続けた。
「いない?」
 リムは目を瞬かせ、少女を見つめる。少女の淡い金の髪がゆるりと風に流されていく。
「いない。ここにいるのは、ただの化け物だけだ」
「それが、竜じゃないのか」
「違う。ただ、竜を知らない人間に竜と呼ばれる化け物だというだけ」
 どういう意味なのか。リムは混乱する。「それが竜ではないと何故君が言える」
「そもそも、君は誰だ? 君こそ何故こんなところにいる」
 近くの街を出たのは、まだ夜明け前だった。休みなく歩き続け、今ようやくリムはここまで来たくらいだ。地元の人間であれば、道を把握し慣れもあるだろうからもっと早く辿り着くこともできただろう。けれどリムは、この少女が地元の人間ではないと感じた。ここに住む人たちとは身体的な特徴が違う。
 そうして今、あの街には自分以外の旅人は訪れていないはずだ。
 少女は長い髪をかきあげた。「私の用事は、お前には関係がない」
「それは、こっちにしたって同じことだと思うが」
「ここにいると死ぬ」
「は?」
 少女の言葉はあっさりとしていて、真実味に欠けた。リムは自分の聞いたせりふが間違っているのではないかと思った。
「お前が竜と聞かされた、ただの化け物に殺されるだろう。早くどこかへ行け」
「……忠告、ってことか?」
 リムは自分の膝に頬杖をついた。真実味に欠けるのは、何もせりふばかりではない。少女の存在もだ。こんな森に、このような少女がいること自体がそもそもおかしい。
「その化け物が、君じゃないとも言えないと思うけど?」
 リムは片眉を上げると、意地悪く少女を人差し指で示した。少女は怒ることもなく、逆に哀れむように「私はお前を殺さない」とひっそりと口にする。
「言ったはずだ。私の用事は、お前には関係ないと。お前の生死は、私の知るところではない」
「なら放っておけばいい」
 意地の悪い気持ちのまま、リムは言い放つ。少女は視線を空へと滑らせ「そういうことも、なかなか難しい」と嘆息した。
「けれど今の言葉をどう捉えるかも、お前の自由だ。だがもう一度言っておく。早くここから立ち去ったほうがいい」
 少女はそういうとリムに背中を向けた。リムはふん、とその背中で揺れる長い髪を見つめる。そうしてそういえば、と声を上げた。「名前は?」
 振り返らずに行ってしまうかと思ったが、少女は足を止めた。ちらりとリムを一瞥し、何かを迷う様子で伏し目がちに唇を緩める。
「ファータ」
 少女は再び背を向け歩きだした。今度こそ、呼び止めても振り返りはしないだろうと言う、妙に頑なな背中だった。リムはその小さな背をしばらく見つめていたが、強い風に気を取られた次の瞬間には見失ってしまった。不思議な森に見合う気味の悪い少女だと思った。
「ファータ、ね」
 その音を口のなかで転がす。彼女の瞳が琥珀色だったということにリムが気づいたのは、それからしばらく後のことだった。


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