淵に沈む

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 外は寒いのか。
 目の前の子どもがぶるぶると震えているので、ようやく彼も気付いた。無造作に指を鳴らし、暖炉に火を入れる。子供はびくりと、ひときわ大きく肩を揺らすと彼を窺う。
 彼は気にせず、本のページをめくった。そういえば寒さを感じなくなってどれほど経つのか。暖炉を使うのも久しぶりだ。彼は軽く息を漏らす。
 すると再び、子供が震えた。
「な、……んで」
 彼はぴたりと手を止め、子供へと視線を向けた。初めて子供が言葉を発したからだ。
 しかし子供は先を言わず、ぎゅっと口を噤んだ。彼は目を眇め、「何だ」と促した。――また、子供が震えた。そうしてから、慌てたそぶりで続きを口にする。
「なんで、たすけたの」
 問いかけの答えを、彼は自分のなかで探った。しかし数秒の後、嘆息と共に諦めた。「知らん」
「知らんって……」
「落ちてたから拾っただけだ」
 本当にそれだけだった。ただ声が聞こえて、なんとなく。
 子供は呆然とした様子で彼を見つめた。彼は再び、本へと視線を戻す。
「なんで」
 子供は問いかけを繰り返すが、どちらかと言えばそれは彼を詰る響きを含んでいた。
「なんできまぐれでたすけたりなんかするんだよ」
 彼は肩をすくめた。気紛れだからこそ、理由なぞなかった。
「しのうと、おもったのに」
 「そうか」彼は視線も上げずに相槌を打つ。子供は押し黙っていたが、彼をじっとねめつけているようだった。視線を痛いぐらいに感じる。彼は再度嘆息しながらも、話を促してやる。
「何だ」
「きかないの」
「何を」
「りゆう」
「興味がない」
 子供はまた沈黙した。しかし空気が揺れたので、彼は顔を上げた。
 子供が目に涙を溜めいている。
「聞いて欲しいのか」
「あんたのせいで、しにそこなったんだ。りゆうくらいきにしても、いいじゃないか」
 ふん。彼は鼻で笑った。
「お前が死のうとしたのは、お間の勝手だ」
「そうだけど」
「そして私がお前を助けたのは私の勝手だ。気にすることでもなんでもない」
 子供はもう一度、そうだけど、と呟き、俯いた。大気がゆらりと波打った。
 泣いてしまったのだろう。すん、と鼻をすする音が聞こえる。彼は本のページを捲った。
 しばらくは、紙の擦れる音と、子供の吐息だけが部屋のなかで響いていた。子供が落ち着く頃、ふと、彼は子供がまだ震えていることに気づいた。
 まだ寒いのだろうか。ならば何故、暖炉のそばに寄らないのか。
「おい」
 呼びかけると、子供は恐る恐る顔を上げた。目が赤い。
「来い」
 子供は叱られたように顎を引いた。
 ああ、怖いからか。彼はふっと肩の力を抜いた。子供が震えている原因が、寒さなどではなく彼なのだとしたら暖炉など何の意味もなかった。
 どうしたものか。彼は考え、部屋を出ていこうと腰を浮かす。しかしすぐに、彼の横に子供が徐に近づいた。
「怖いのではないのか」
「なにが」
「私が」
「なんで」
 彼は子供の痩せた肩を指し示す。「震えている」
 子供はそっぽを向いた。
「さむいだけ」
「そうか」
「……あのさ」
 子供は不意に彼の服の裾を引っ張った。そしてぱっと手を放す。まるで触ってはいけなかった、というように。
「あんたのきまぐれで、あたしはここにいるんでしょう」
「そうだな」
「じゃあまたきまぐれで、おいだされるかもしれないの?」
 彼は少し考えるように顎に触れた。子供は、そんな彼の一挙一動を見逃すまいとばかりにじっと見つめてくる。
「好きにすればいい」
「どういうこと?」
「別にここに誰がいようと、私は構わん。追い出すつもりも引きとめるつもりもない」
 子供は眉根を寄せた。「ええと、」
「つまりここにいてもいいって、いうこと?」
「そう言っている」
 彼の言葉に子供は安心したのか、じんわりと微笑んだ。「じゃあ、いる」
「そうか」
 好きにしろ。彼がもう一度告げると、子供はこくりと頷く。そうして「ねむってもいい?」と訊ね、彼が答える前に暖炉のそばで丸くなった。
 風邪をひくのではないかと、彼は呆れ、それから立ち上がる。

 果たして、この家にまだ毛布は残っていただろうか。


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