さよならを言うから

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 たぷん。
 ふっと身体が浮き上がるような感覚があった。知っている。この音もこの感触も、随分としずかの馴染んだものだ。
(でも塩素臭くない)
 そしていつもよりも身体が重い気がした。しずかはゆっくりと目を開く。辺りは真っ暗で、一瞬夜なのかと錯覚する。
 一度、二度と瞬きをするとようやく目が慣れてきた。しずかはふ、と息を吐き出す。
「どこ?」
 声が微かに響く。遠足で、こうした景色を見たことがあった。
 天井はごつごつした岩だらけの空間。ぽかりと空間があって、下は広い水たまりのように泉が広がっている。明りが入る隙間が多少はあるのだろう。それでも、昼か夜かさえしずかには判別がつかない。
(洞窟?)
 無意識に手が水をかいた。――そうして、ああ、としずかは自分がいま水に浮いていることを知る。頭がぼうっとしている。まるで長いこと眠っていたときのように。夢から覚めずにいるようで、しずかは頭を振った。そうして、深く息を吸う。どこか岸は、陸に上がれるところはないだろうか。
 とりあえずと壁の近い方へと泳ぎ出す。いつものようにはうまくいかず、しずかは眉根を寄せる。それもそのはずで、しずかは服を着たままだった。
「どうして、って、制服!」
 びしょ濡れだ。今更だが、セーラー服の白い袖が二の腕にぺたりと張り付いている。足も妙に窮屈だ。ローファーを履いたままなのだろう。
 濡れた前髪をかきあげる。ひやりとした空気に身体がぶるりと震えた。
(急ごう)
 どうして制服なのか。そもそも、ここはどこなのか。どうしてこんなところにいるのか――。謎ばかりが頭を占める。けれど、それら全てを考えることを、しずかは後回しにした。とにかく早く上がりたい。体力がなくなってしまう。
 たぷん。
 水をかく。耳慣れた音は心地よく、しずかはうっとりと息を吐き出す。ぱしゃんと足を上げて、水面を一度だけ叩いた。スカートも、靴も、重い。
 泳ぐことは好きだ。こんなときでも、それは変わらない。いつものように塩素のにおいがしないことが若干彼女を不安にさせたが、それだけだった。これだけ身体が簡単に浮くということは塩分濃度が高いのかもしれない。けれどそれにしては、水はさらりと滑らかに肌を撫でる。
 ――岸へは、意外なほど簡単に辿り着いた。見えなかっただけで、壁の横には一メートルほどの陸ができている。しずかは濡れて重い身体で何とか這い上がる。地面はごつごつして固い。手のひらや足に小さな擦り傷ができてしまった。陸の上で息を整えながら、じわりと滲む血をしずかはどうしたものかと眺める。
(乾けば固まるか)
 静かな洞窟――そう考えていたのに、ぱしゃんと水の音がした。
(何かいる? ――違う。ひと?)
 上がる水飛沫に、しずかははっとした。人が溺れている。
 立ち上がって、自分の身体の重さに気づく。動きにくさも。靴とセーラー服を何とか脱ぎ捨て、水に飛び込む。
 無茶をしたかもしれない。暗い水のなかを進みながら思う。水飛沫が上がる近くまできて、しずかは水に潜る。正面からではなく、後ろから助けなければ、しがみつかれて自分まで溺れてしまう。回り込もうとした。
 しかしふっと、その相手と水のなかで目が合った。そんなことがあるはずがないと思ったけれど、確かに互いに見つめていた。こんなにも暗いのに、どうして――しずかは知らず、手を伸ばした。
 大きな手のひらが、その手をつかんだ。


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