きみの背中

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「いいよな、直人は」
 そんなふうに言われることはよくあった。

 放課後の教室には、珍しく五人しか残っていなかった。いつもならだらだらとしゃべりながらメイクを始める女子も、教室の隅で雑誌を見ながら熱く口論を交わす男子たちもいない。いまは期末考査の五日前だ。皆、家や図書館で勉強にいそしむのだろう。
 五十嵐直人もそのつもりだった。あと少し、別のクラスで日直をしている幼なじみを待って帰る。ほかの四人も、もう帰るだろう。期末考査絶望的、と言いながら、全員が漫画雑誌や単行本に没頭している。
 ひとりが読み終えた本を閉じ、ふー、と溜息を吐いた。そうして直人に顔を向ける。
「いいよな、直人は」
「何が」
「何がじゃねー。どうせあれだろ。もう試験ばっちりなんだろ」
 絡んでくる声は弱々しい。試験勉強を始める前から疲れてきっているようだ。
「ばっちりなわけないだろ。帰って勉強するよ」
「嘘くせーなあ」
 他の面々もにやにやとこちらを窺っている。面倒だなと直人は思いながらも笑顔は崩さない。彼らに悪意があるわけではないからだ。
 正確には彼らは友人というよりもただの級友だ。こんなカテゴリ分けをすると、だから友達できないんだよ、と数少ない友人の一人には怒られそうだが、事実そうだ。普段は碌々言葉も交わさない。すれ違えば挨拶くらいはするけれど、それくらい。いま彼らが直人の周りに集まってきているのは試験前だからだ。ノートコピーさせて、試験のヤマを張って欲しい。そういう要望を、こういうときだけさらりと口にする。直人にしてみても特に関係を荒立てる気もないので、素直に応えるけれど。
「大石に告られたってホント?」
「あー。うん」
「さすがだねー」
 でも振ったんでしょ。訳知り顔で頷く級友に曖昧に相槌を打つ。途端に「だよねー!」と声が返る。
「直人君彼女いるもんなー」
「っていうか幼なじみが同い年の可愛い女の子とか漫画の世界でしょ」
「マジうらやましーわ」
「つか、顔よし頭よし運動神経よしで背も高くて? 性格も良いっていう直人君の存在自体が漫画の世界」
 いつものやりとりだ。そこに悪意があるかどうか。今度ばかりは、直人には見分けられない。期末考査云々よりも、女子からの視線の方が、男子高校生にはポイントが高いようだ。
 以前は直人も、少しそういったことに優越感を抱いていた時期があった。可愛い幼なじみの彼女。幼なじみ、というそれだけで、他の誰よりも彼女との距離は近かった。それはいまも変わらない。
「天は二物を与えないって、ありゃ嘘だなと思うわ。直人君を見てるとさ」
 そうかな。直人は溜息を押し殺してひとり胸のなかでごちる。そんなことはない。

 天は本当に欲しいものは、一物だって直人には与えてはいないのだから。

***

 そうだなあ。直人も頷く。本当に、その通りだと思う。
 いまと昔は、違う。昔は三人で、一緒だった。何をするのもどこに行くのも一緒だった。真ん中が秋緒、左が和人、右が直人。手を繋いで、どこまでも走っていった。時折和人が転ぶ。巻き込まれて三人で転がることもあれば、秋緒と直人が和人を引っ張り起こしたりもする。そういうのが当たり前の日常だった。けれど、いまは三人ではないのだと、海野の言葉に気づく。
 今はもう、ふたりと、ひとりだ。
「別に俺が口出すことじゃねーけどよ、なんつか、お前がそこまで甘やかす必要があんの?」
「兄弟だとか幼なじみだとか、そういう……」
「二人の問題は二人の問題だろ」
 きっぱり言われてしまえば、直人にはぐうの音も出ない。直人はがしがしと頭をかいた。海野はしばらく直人を見つめると、肩を竦めた。そうして席を立ち、ぺしっと直人の頭を叩く。「しっかりしろよ」
 そのまま教室を出ていく海野を、直人は叩かれた頭を押さえつつ見送る。心配させてしまったのが、申し訳ないと思う。
 直人は深く息を吐いた。海野が言うか言わないか迷っている言葉があることを知っている。そうしてそれはたぶん、核心を突く言葉。
「ていうかですね」
 随分近くから高い声が聞こえて直人はぎょっとした。目の前だ。先程まで海野が座っていた席に、少女がひとり、するりと入り込んでいる。
 気づかなかった。直人は少し身体を引いて目を見開く。
「どうして、告白しないんですか?」
 小さな作りの頭に細長い手足。ふわふわとした髪をツインテールにした彼女を、直人は知っていた。五日前に、自分に告白してきた一学年下の女の子だ。
「えっと」
 名前は覚えている。しかし名字は知らない。直人はどう呼びかけたらいいものか迷って言葉を出しあぐねる。少女は軽く首を傾げて、「美和です」と名乗る。
「うん、知ってる。名字は?」
「美和って呼んでほしいんですけど」
「呼びにくいから」
 だから名字を知りたい、という直人の訴えに首を傾げて美和は返す。どうやら応えるつもりはないらしい。人を説得するのは苦手だ。直人は早々に諦める。
「えっと、美和さん」
「はい」
「ここ、二年の教室なんだけど」
 少女は目をぱちくりと瞬かせた。「知ってますよ。だって先輩の教室じゃないですか」
 別に一年が二年の教室に入ってはいけないという校則があるわけではない。だが気後れしてしまうのが普通だ。教室の入り口で呼び出してもらうのが、直人のなかでのスタンダード。
「何してるの?」
「この間告白したじゃないですか、その返事なんですけど」
 あれ? と今度は直人が首を傾げる。「返事、したよね?」
 直人は秋緒と付き合っているという噂がある割に、よく告白された。同学年よりも、噂がまだ広がりきっていない一年や、和人の在籍する三年に多い。直人は簡単に悪いけどつき合えないと言うだけだが、噂のおかげであまり深く突っ込まれることはなかった。
 美和もそうだ。放課後呼び出されて、好きです、と言われた。いつも通り、直人はごめんなさいと言った。
 それで終わりではなかったのだろうか。
「納得がいかなかったんですよね。どうして駄目なんですか。そこ、答えてくれてないじゃないですか」
「あー」
 何と言おうか。直人が迷う端から、「彼女がいるからって言うのは、駄目ですよ」と美和はきっぱりと言った。
「駄目なんだ?」
「だって、いないじゃないですか」
 噂なら知ってますよもちろん。美和は口を尖らせる。「でも、嘘ですよね。付き合ってるのは直人先輩じゃない、直人先輩のお兄さんでしょう」
「よく知ってるね」
 直人は嫌みではなく、感心した。別に誰も彼もが隠しているわけではないから、察するのも難しくはないけれど。
 じゃあいいか。と直人は美和に向き合う。そうしてふと、綺麗な子だな、と思った。大きな濡れたような黒い目を長い睫が縁取っている。
「彼女ではないけど、俺は秋緒を好きだから」
 だから、の続きは必要なかった。美和は重々しく頷いて、身を乗り出した。


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